好きなもの
最近、駅のホームで見かけた同い年くらいの男の子。
持っていたショルダーバッグが、よしもとのお笑い芸人さんたちがデフォルメされて、カラフルに刺繍されたかわいいカバンで、思わずニコニコしてしまいました。
ああ好きなんだなぁって、思って。
良いですよね、そういう人。
好きなものを身に付けてる人はかわいいし、素敵だと思います。
私の友だちにも居ます、かわいいかわいいって言いながらリュックやペンケースに付けたストラップとか文房具とかスマホケースとか、全部彼女が好きなもので揃えてる子。私はそれにあまり興味が無いから、真似したりお揃いにしたりはしないけど、でも新しい好きなものをゲットする度に「見て見て!」と見せてくる彼女は、とても良い。かわいい。
私も、好きなものは好きって言いたいのです。
カメラが大好き、BUMPも大好き、oasisも椎名林檎ちゃんもOKAMOTO'Sも好き、ソフトクリームが好き、バレエが好き、美術館が好き、上から交差点を眺められるカフェが好き、美味しそうに食べる人が好き、楽しそうに話す人が好き、好きなものはあげたらキリがない!
好き!って感情はあればある程、楽しくて素敵な日々を過ごせる気がしません?
別に無知でも構わない、数曲しか知らなくても好きなアーティストは好きだし、絵を見て好きだ!と思うのに知識は要らないと思うのです。
素直に、
好きなものは好きだと言いたいのです。
好きな人に好きだと言いたいのです。
難しいけどね。
だってほら、「それ嫌い!」とか「私はあなたが嫌い!」とか言われたくないじゃない?
私はよく、そう思ってしまいます。
好きなものを否定されるの、怖いよね。
そう、素直になるのはちょいと難しい。
だからせめて、
好きな人たちが好きな物について話す時はちゃんと聞きたいし、
好きな人たちの好きなものは大切にしたいし、
なるべくそれを覚えていて、ふと店先で「あいつこれ好きだったよな」ってにやにやしながら買って、プレゼントとかしちゃいたい。
私がカメラや写真の話をする時、
大好きな友人たちは「写真なんてどうでもいいよ~」なんて一言も言わずに、私の話を聞いてくれます。なにについて話す時もそう。私が大切にしていることを馬鹿にしたことなんて、1度もありません。
私も、そういう人になりたいです。
いつもありがとうね、大好きです。
月嶋 真昼
虚な言葉の話
虚(がらんどう)な言葉の話
私たちは言葉を並べて意思疎通をし、
相手のことを知り、
自分の中の感情になまえを付け、
心に溜まるモノ、意思と意志、感情、思慮、思考、、、、、それら全てを言葉によって消化しています。
辞書を捲れば、言葉が意味を従えて並んでいるように、私とあなたの間にある言葉たちは、それぞれ共通の、全く同じ意味を抱えてそこにあります。
私の「嬉しい」とあなたの「嬉しい」
私の「悲しい」とあなたの「悲しい」
私の「綺麗」とあなたの「綺麗」
ほら、書いてみたら全く一緒だ、寸分違わず同じ文字として、音として、意味として、そこにある。
でも、本当に同じなのでしょうか?
自分の中に積み重ねた今までの自分の感情も、あなたの感情も、
文字に起こしてしまえばきっと、似たり寄ったりの言葉の羅列に集約されてしまう。
本当に本当のあなたの感情は誰に伝えることも出来なくて、あなたの中にしかなくて、、、、、
言葉は、誰でも辞書を捲ってしまえば知ることが出来てしまいます。
言葉は誰のものでもなくて、誰でも使えるもので、
普遍的なもので、
ただの記号で。
それ故に、言葉は空っぽなのです。
それでもニンゲンが、空っぽの言葉を使うようになったのはなぜなのか。
ひとりひとりが異なる思想を持ち、異なる思考をする。
であるのにも関わらず、出来合いの意味コードでしかない言葉に落とし込めば、それらはたちまち普遍的なものになる。
個性は個性ではなくなり、「私の」思慮は私から離れてゆく。
あなたが言葉に託したい本当の意味、意志と意思、感情、思慮、思考、それは全て言葉の枠の外側
―― 選び方、組み立て方、ならべ方、、、、、
にうっすらと影を落とすばかりです。
ニンゲンの違いは全て言葉の外にある、
出来合いの意味コード以上のものを背負い込んだ言葉には、亀裂が入る。言葉がその負荷に軋んだその時、風がそこを走り抜ける。
本当の自分が見えてくる。
言葉の意味に囚われてはいけないと私は思います。
言葉はとても、とても怖いものです。
自分の複雑な思考、思慮、それら全てが言葉に集約されてしまえば、自分の中にあったそれは言葉でしかなくなってしまって。
自分のものではなくなってしまって。
それは怖い、とてもとても怖い。
私は今、そんな恐怖とやり合いながら、私の中の思考を精一杯言語化しています。
それをなるべく削ぎ落とさないように。
削ぎ落とされてしまったそれも、言葉の隙間に影を落とすように。
私たちニンゲンが、相手や自分を、理解して想って過ごすためには、どうしても言葉に頼らざるを得ないから、言語化すること以外に方法は無いから。
だからこそ私は、
言葉に呑み込まれないように
言葉とたたかいながら、
言葉にある隙間の埋め方を、
私だけの言葉の使い方を、
がらんどうな言葉との付き合い方を、
今日も明日も考えてゆこうと思います。
自分と向き合うため、
他者と向き合うため、
私が私らしく生きるために。
風が走り抜けるまで。
月嶋 真昼
中途半端な『待ち遠しい』
わたしは高校生です。
中途半端な高校生です。
子どもだけど、
大人じゃない。
大人と子どもの間でゆれ動きながら
早く大人になりたいもどかしさと、子どもであるが故の怠惰と、大人になることへの怖さと、子どもだと言えなくなる寂しさと、
諸々に押しつぶされそうになって、背伸びしたり甘えてみたり。
大人のふりをすればいいのか、子どものふりをすればいいのか、分からない毎日。
でも、雪の降った今日、『大雪による交通の乱れに注意』としきりに言うアナウンサーを横目に見ながら雪が全く待ち遠しくないわたしは、確かに少しずつ大人に近付いているのかも知れないと思いました。
小学生のわたしはきっと、雪が降るというニュースに胸を高鳴らせて、空を見上げながら登校したでしょう。
―――進級、運動会、夏休み、冬休み、誕生日、始業式も、学芸会も、お正月も、もしかしたら給食の揚げパンも―――
ぜんぶぜんぶ、待ち遠しいものたちでした。
季節は同じように毎年毎年巡るのに、
毎年毎年『待ち遠しいもの』が少なくなっていく。
大人になるってこういうこと?
わたしの好きな作家があるエッセイに、
「大人になるということは、子どもの『待ち遠しい』を作る側になるということ」
と書いています。
わたしは誰かの『待ち遠しい』を作る側なのでしょうか?
いや、わたしにその器はありません。
きっと高校生とか大学生とか、大人でもない子どもでもないこの中途半端な時期は、
自分で自分の為に『待ち遠しい』を作っていかなきゃならないんだと思います。
いつか、誰か大切な人が出来た時、その人の『待ち遠しい』を作れるようになるために
『待ち遠しい』が少なくなっていく毎日ですが、わたしは去年の夏になってから、撮りきったフィルム写真が現像から帰ってくるのはとっても待ち遠しいことを知りました。
いつかそれが、わたしが写した家族や大好きな友人、そしていつか出来るかも知れない大切な人の『待ち遠しい』になったら、それはすごく幸せなことだと思います。
ここまで読んでくださったあなたにも、
あなたとあなたの大切な誰かとの『待ち遠しい』ができますように。
わたしはこれから、友だちが写ったフィルムを現像に出してこようと思います。
月嶋 真昼
年越しと写真とわたし
毎年毎年、年を越しても何も変わらない自分に苛つくから冬休みは好きじゃない。
卒業したり入学したり、進級したり部活を辞めたり、環境が変わったところで (自分で無理やり変えたところで) 自分は何も変わらなくて、そういう自分が大嫌いなまま、もう18になるだなんて信じたくない。
時間なんて止まればいいのに。
そんなことを思っていたら、写真を好きになった理由が分かった気がしました。
この世界は美しいもので溢れているのに、わたしの心はスプーンひと匙分の感情しか乗せきれません。
「焦り」「寂しさ」「義務感」「焦燥感」「苛つき」「怒り」その時その時の感情をひと匙分乗せただけで余裕の無くなるわたしは、時間を止めなければ、この美しい世界の美しい瞬間に気付いて何かを想うことすら出来なかったのです。
写真に写る世界に、時間の流れは存在しません。時間に流されながら移ろいゆくわたしのひと匙分の感情は、写真に写る世界には存在しない。
写真を通してなら、美しい瞬間を素直に美しいと思えるのです。憶えていたい、と。
きっとわたしはいつまでも、今日を好きでいるために、写真に頼りながら毎日を過ごしていくでしょう。
わたしはわたしが大嫌いでも、わたしが居るこの世界を嫌いになりたくはない。わたしにとって写真を撮ることは、この世界を今日も好きでいられますように、と願うことと同じなのかも知れません。
そして、自分を騙すかのように、そのままわたしの住む世界ごとわたしを好きになれたりしないかな、なんて思っています。
好きな映画がきっかけで、主演の俳優を好きになるみたいに、自然に。
月嶋 真昼
きっかけ。
最近、
今まで経験したことのないような“自己嫌悪の渦”の中にいました。
「何もしたくない」
自己嫌悪って怖い。
自分をどんどん負の方向へ引きずり込んでゆく。
辛かった。
でも、今日書きたいのは、その自己嫌悪のことではありません笑
“きっかけ”の話です。
わたしは小さい時から本を読むのが好きでした。
そこから言葉に惹かれ、言葉を綴ることを仕事にしたいと思うようになりました。
(そんな、わたしが惹かれた言葉の話は追々書いていこうとおもいます)
言葉を綴ることが大好きなわたしは、手軽なツールとしてTwitterで、考えたこと思ったことを書くようになりました。
(もちろん普段はどうでもいいことをツイートしています笑)
140字以内。
数えきれない程のツイート、膨大な情報量。
誰かに見てもらいたかった訳ではありません。ただの自己満足でした。
だけど、、、
冒頭に書いた、今までに経験したことのないような“自己嫌悪の渦”の中にいる時、
わたしの書いた文章に素敵な褒め言葉をくれた方がいたんです。
わたしが人見知りを発揮して、あまり話したことのなかった方でした。
はじめて贔屓目も何も無い、純粋な褒め言葉をわざわざ伝えてくれた。
そしてその褒め言葉が本当に本当に素敵だった!!!!
その言葉が心にしゅんと染み込んで暖かくなって、わたしは頑張りたいと思えました。
「何もしたくない」と思っていたのに。
少しでも認めてくれる人がいたことが、頑張ろうという意志に繋がりました。
だから
あなたの周りの人の、素敵なところ、頑張りだとか考え方だとか、、、
すごい!と思ったら素直にそれを伝えるようにしませんか。
どんな些細なことでも、あなたにとって何気ない一言だとしても
その人がしんどい時であれば尚更、
そうでなかったとしても、
あなたの褒め言葉はきっとその人の力になる
大げさじゃないと思います
言葉の力を信じてみませんか?
まずはわたしから。
言葉の力
わたしの言葉が誰かの心を暖かくして、あわよくば、その人の力になることを信じて
今日からここに、
誰かに届けたい、わたしの言葉を綴ります。
以上、わたしのふたつのきっかけの話でした。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。
では、また。
月嶋 真昼